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女性の性―ヴァギナにまつわる話

ブログを久しく書いていなかったので、いつか書こうと思っていたことを書いてしまおうと思う。
The Myth of Vaginal Orgasm(膣オーガズムの神話)
Anne Koedtという人が、The New York Radical Womenという雑誌に1968年に寄せた文章である。

出典:http://scriptorium.lib.duke.edu/wlm/notes/


(訳)
女性のオーガズムが論じられるとき、いつも膣オーガズムと陰核オーガズムについて、間違った区別がされている。不感症は一般に、男性によって、膣でのオーガズムを得られなかった女性の過失と定義される。実際、膣はあまり敏感な部位ではなく、生理的に、オーガズムを得るようには作られていない。陰核は敏感な部位で、女性にとってのペニスに相当する。このことは、多くのことを説明してくれるように思われる。まず、女性の間の、いわゆる不感症の羅漢率が驚異的であること。普通、私たちはオーガズムを得られなければそれは心の問題であると言われ、多くの女性がこのような分析を受け入れている。しかし、男性にもセックスに対する不安はあって、しかし彼らはオーガズムに達している。原因は、他にあるのではないかと思うのだ。

実際に起こっていることは、以下のようなことだ:女性がオーガズムを迎えるための部位はたった一つ(性的な興奮を高めることができる部位は多くあるけれども)陰核だけである。あらゆるオーガズムはこの部位の知覚の延長にある…陰核はたいてい普通のセックスの体位では直接刺激されることはなく「感じない」まま放置される。その他の刺激は純粋に心理的なもので、フェティッシュや思考、誰かを想像することで得られるものだ。しかし、この種のオーガズムは膣の中での摩擦によって起こるものではなく、膣オーガズムと考えることはできない。むしろ、それは心理的に引き起こされるオーガズムで、この点で身体的な陰核オーガズムとはっきり異なる。陰核への接触によって起こるオーガズムのうち、その強度には段階があり、局部的なものから強く広範にわたるものまである。しかしながら、それらを引き起こす身体の部位は陰核なのである。

これらを考えると、「ふつうの」セックスと、セックスでの男女の役割について疑問が生じてくる。男性がオーガズムを得るのは膣の中での摩擦であって、陰核―外部にあって、挿入によって刺激することができない―ではない。こうして、女性は男性に快楽をもたらす存在として性的に定義されてきたのである。私たち自身の生態は正しく分析されてこなかった。かわりに、私たちは「解放された女」と膣オーガズムという実際には存在しないオーガズムの神話を与えられてきたのである。

私たちのセクシュアリティを再定義しなくてはならない。私たちは、セックスに関する「普通の」概念を捨てて、男女双方の性的な楽しみを導く新たなガイドラインを作らなければならない。男女双方の楽しみ、という考えは結婚のマニュアルには載っているのに、その論理的な帰結が欠けている。もし、現在「標準」とされている、ある種の体位やテクニックが、男女双方にオーガズムを導くものではないとしたら、それはすでに「標準」ではないのだと主張しなくてはならない。現行の性的な搾取を覆す新たなテクニックが使われ、考えだされないといけないのだ。

(訳終わり)

 短い文章だが、非常に多くの示唆に富んでいるように思う。この文章から、膣オーガズムと陰核オーガズムについて、生理学的な議論を始めることにはあまり興味はない。重要なことは、女性の性、女性の性的な快楽がどのように社会的・文化的に定義されてきたのかを考えることで、それを考えることは現代においても、女性差別の本質に迫る重要な試みであると思う。


 女性の性は、どのように定義されてきたのか。女性にとって性とは、常に「タブー」であったと言えると思う。性的に奔放な女は忌避され、婚外でのセックスへの制裁は女性のほうに不均衡に下されてきた。たとえ夫婦や恋人同士であっても、自分から相手をセックスに誘うことは望ましくないとされてきた。
 
 一方、女性が男性からの誘いを拒否することは望ましくないし、それで快楽を得られなければ「不感症」である女性の問題として処理される。子供を授からなければ、それも女性のほうに問題があると安易に想定される。女性にとって性は常にトラブルだ。それは月経の赤黒い血や子宮の痛みと結びつくものだし、強引なセックスの痛みと結びつくものだ。子を産まなければ存在価値がないとみなされる強迫観念はいつの時代の女にも付きまとう。

 性について、自分の身体について知ることからも遠ざけられてきた。知を奪うことは大きな権力の行使だ。女性の性を男性権力がコントロールするために、女性は無知であることが都合がいい。自分の身体と生殖を自分でコントロールすることは常に邪魔されて、女性は身体の自律性を獲得できていない。(例:ピル認可の遅れと中絶の禁止)

 また、女性の自慰について語るような空間はどこにも開かれていない。男性の自慰は少なくとも社会的に認知されていて(性産業はほとんど男性向けのもの)、女性は自慰をしないものとされてきた。女性は自身が欲望する存在とは認識されず、あくまで男性に欲望される対象として構築されてきたのだ。

 女性同士の性愛は、男性の目線に常に晒され、不完全な形とされてきた。男性同士の同性愛が性の過剰としてイメージされるのに対し、女性同士の同性愛は異性愛規範を揺るがすことのない未熟で不完全なものとされがちである。ペニスの介在しない女性同士の性愛は、ペニスがヴァギナを貫くことをセックスと認識するヘテロ男性にとって、自らのペニスが存在する余地を残しているものとなるのだ。大量の「レズもの」のAVがヘテロ男性のために供給されている。


 例を挙げ出せばきりがない。女性の性を女性のものとして再定義することは、女性差別をなくすことの核心だと思う。だけど、あまりにも女性の性を男性に欲望される対象として構築してきた歴史は深く長く、文化や規範の様々なところに明示的に、暗示的に、巧妙に張り巡らされているために、この作業はまったく容易ではない。



 女性の性を女性のものとして取り戻す―そのための1つの試みが、Eve EnslerのVagina Monologueである。



 この動画(3:24~)は、いくつかあるVagina Monologueのなかのエピソードのなかで私が一番気に入っている、Reclaiming Cuntというエピソード。(CuntはVaginaの下品な表現)

 なぜ女性は自分のヴァギナを見つめることがないのか、どうして愛さないのか、どうして語らないのか、それは自分の体の一部であるはずなのに。それは自分の体の一部でありながら、自分のものではなく、誰か他の人のものであるかのようだ。―そういう問題意識から、Eve Enslerが様々な女性たちに自分のVaginaのことについてインタビューして作った演劇がVagina Monologueだ。

 96年に初演されたこの演劇は、アメリカ各地で、そして世界中でフェミニストたちが翻訳して上演してきた。もちろん日本でも。

 
 性というものをオープンに語らない、秘匿することが、どのような政治的な効果を持ちうるのかを考えなくてはいけない。女性が性を語ることが、「はしたない」とされてしまう空間が、女性にとってどのような危険をもたらしうるか。しかし、このことは女性が性に奔放になること・そのような態度が認可されること=女性解放である、ということを意味しないということは重要なことだ。(日本はそのように勘違いしている人が多すぎる印象)

 Anne Koedtの文章に戻る。

「私たちは『解放された女』と膣オーガズムという実際には存在しないオーガズムの神話を与えられてきたのである」

 ここで「『解放された女』…という神話」という言葉で、Koedtが示唆していることは、「性的に解放された女」=女性解放とする神話が、どのように女性を傷つけてきたか、ということであるように思う。性的に奔放な女に対するレッテルや社会的制裁がなくならないまま、女性が自分の身体の完全なオートノミーを得ることができないまま、男性と女性をまったく同等の存在として見なすことは危険である。セックスのリスクは、男性の身体と女性の身体に、男性の社会的な地位と女性の社会的な地位に、非対称にもたらされる。その非対称性に目をつぶってしまえば、結果女性に不利な状況しかうまれない。(これは、Color Blindといわれる人種政策が結果として黒人に何の利益ももたらさず、人種差別を助長さえする偽善と似ている)

 女性の性を女性のものとして取り戻し、女性が性を自分のものとして語り、参加し、楽しむものとして再構築する、ただし、男性に都合よく収奪されない形で。この難題をどう解決するか、答えは簡単には出ないのだけれども。

 ただ、Youtubeにたくさんあがっている、様々な女性たちによって演じられているVagina Monologueの動画を見ていると、どの動画でも女性たちが非常に生き生きとしているように見えて、そういうのはすごく素敵だなぁと思ったのでした。
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